50代からの新しい生活!

子育て、転勤生活ひと段落。夫は定年間近。親の介護目前で、ギクシャク。新天地での新生活は、自分の老後も視野に入れながら、始めます。

親はどこで亡くなりたいのかな?

訪問介護しながらいろいろな家族を見てきた。

 

高齢者がだんだん自立生活が出来なくなって、

人の手を借りる必要がだんだん出てくると、

家族は、

高齢者施設に預かってもらえないかな?と考え始める。

 

しかし、高齢の親は、

新しい場所に順応することが不安で、

自宅で最後まで過ごしたいと言う。

 

親も、子供たちの生活を自分のせいで壊してしまうつもりはないから、

「大丈夫」と心配させないようにふるまう。

 

しかし、実際のところ、

たった一人での生活は、

困ること、不安なことが山積みだ。

 

電球を替えたい

トイレが壊れた

こけた

ケガした

体調が悪い

 

困ることだらけで、SOSが増えてくる。

 

その度に、遠方から駆け付け、

仕事を休み、

笑顔で手助けをしていても、

それが度重なってくると、

子供も音を上げ始める。

もういい加減にしてくれ!と。

 

困っている親を見捨てるわけにもいかず、

お互いぎくしゃくしながら、

少しづつ疲れ果てていく。

 

訪問ヘルパーやディサービス、

ケアマネージャーさんたちが、

それらの独居を支えるために奮闘してくれて、

これまではそんな人たちもどうにか過ごしてこれたけれど、

マンパワーの不足や、

コロナの広がりで、

難しい局面を迎え始めている。

 

高齢の親・・自分が高齢になった時、

どこに住みたいのか?

どんな生活をしたいのか?

誰と一緒にいたいのか?

そして、どういう風に最後を迎えたいのか?

 

お金や様々な条件が前提になってしまうけど、

そんな条件を無視して、

自分の気持ちだけを前提にした時、

 

私なら

 

同じように年を重ねてきたパートナーがいるのなら、

支えあって、補い合って、

工夫をしながら、

静かに暮らしていきたい。

 

子供たちはそれぞれの家庭を一生懸命に守り、生活をしているのだから、

その重荷になりたくない。

子供が育ち、子供に支えあう家族ができ、

私達から無事巣立っていったなら、

私達夫婦の子育てという仕事は終わったわけで、

残りの人生を、社会の片隅で、

ゆっくり自分のペースで、

人に迷惑をかけずに、

ささやかな楽しみを糧に過ごしていきたいと思う。

 

自治会とか近所の人のお世話や役割が出来なくなっても、

自分の家の前を掃いたり、

敷地の庭木を愛でたり、

迷惑をかけないようにルールを守り、

小さな生活を、清潔に、過ごしたい。

 

家では、すっきりと整理整頓された家で、

自分の長年愛してきたもの、大事にしてきたもの、

思い出深いものに囲まれ、

一日一日を過ごす。

そんな生活がしたい。

 

しかし、それでも、突然病魔に襲われたり、

パートナーを亡くし、一人ぼっちになったり、

社会と切り離され、孤独になったり

するのだろう。

 

そんな孤独な生活でも、

大きくなった孫が時々訪ねてきたり、

家族が気にかけているよと伝えたり

してくれたら、それで充分、嬉しい。

 

だから、怖がらないでほしい。

年老いた私の姿を見て、

一緒に死の淵に引きずり込まれてしまうのではないかと

家族は怯えないでほしい。

 

自分だけの力では生活が回らなくなる。

他人の助けを必要とする。

そんな時でも、

みじめな状況になっても、

自他の領域は持っていたい。

 

怖れや不安が大きくなると

専門家のお医者さんや看護師さんの意見には絶対に従うようになるだろう。

プロのアドバイスには藁にもすがる思いで従うだろう。

だから、そんな状態の私を

騙そうとしたり、利用しようとしたりしないで欲しい。

そんな悪意を遠ざけてほしい。

 

財産を沢山持っていると、

弱くなった自分にすり寄ってきたり、

騙そうとしたりする人が

湧いてくる。

 

年を取ってから

生き永らえるための

高価な延命治療や特別な医療は必要ないから、

自分の寿命を、安らかに、終えたい。

 

痛いことや苦しむことは嫌だけど、

寿命に逆らい、身体を生かすためだけの措置はいらない。

 

今のシステムでは、

目の前で死にかけている人をみると

周囲の人は救急車を呼ぶ。

救急隊は救命するために特化されている人たちなので、

救急車を呼ぶと、

身体を生かし続けるための措置が取られる。

 

今は、それが嫌だと言っても、

自分が実際そのような状況なら、

延命してほしいと願うかもしれない。

 

しかし、今のところ、

最後に家族に会うため、

何かを伝えるため

という目的がなければ、救命措置は必要ない。

 

家族に会うために、救命を望むかもしれない。

 家族がそれを望んでいるだろうから、会えるまで頑張るかもしれない。

 

しかし、

技術が発達し、身体を生かせ続ける技術が発達したことによって、

そういう目的を果たした後も、

身体は長々と生き続けてしまう。

その結果、その大事な家族を疲れ果てさせてしまう。

 

最後は延命治療でつながれた装置を外す決断を

家族にしてもらわなければならない。

それは、酷だ。

 

私の場合、

子供たちを支えてくれる家族ができ、

安心できたあとならば、

寿命が来たら、

最後に、お別れの挨拶が出来たら、

そのまま安らかに旅立ちたい。

 

残された家族や子孫が

しっかりと彼ら自身の生活を歩めるように

見守っていることを伝え、

出会いに感謝と、愛が伝えられたら・・それが本望だと考えている。

 

自分自身がされたいことしかわからないけど、

自分たちの親もきっと同じような気持ちなんだと思うと、

少し落ち着いた。

 

両親の年老いていく姿を見るたびに、

かかわると、一緒に死の淵まで引きずり落されそうな怖さを感じていたから・・。