コロナからの新しい生活!

子供たちの進学、転勤、新生活スタートのはずが、緊急事態宣言でひきこもり新生活スタート

義父母と夫の関係に巻き込まれたくない

家長制度がしっかり根づく田舎のある義両親宅にいってきた。

自分のしたいこと、意見をことごとく、

義父に従ってねじまげてきた義母。

お酒にのまれても、それを許し、

好意的に受け入れ、

外に対する迷惑をかばう共同体だった義母とその息子である、わが夫。

 

教育のある、頭の良い義母や

社会的地位があり、能力のある夫は運命共同体のように、

他人の立ち入る隙間のないほどに強固な絆で結ばれていて、

お互いの価値観も非常に似通っている。

 

私とは違う価値観を持っているけれど、

私に迷惑をかけない限り、それはそれでOKだ。

 

お互いを支え、お互いの狭い世界でお互いを認め合って生きているんだから、

それを外から口を出す必要はないと思う。

 

夫が、自分でなく、

母親とべったり依存関係にあるのはどうなのか?

それに関しては、

夫と私は、真のパートナーになろうと

最初の時点から積み重ねることをしてこなかったのだから、

それに対して、特別なしっとはない。

 

彼は私のことを知らないし、知ろうとしてこなかったし、

私も同様にそうだったから。

結婚と同時に、あれよかれよと子供を産んで、

そのあとに、お互いを知ろう、知ったら、違う、受け入れられない、

なんて思い始めたら大変だ!と、見極めることをやめたのだ。

子供を守って、育てていくことが第一目的だったから、

相手とじっくり向き合い始めたら、

家族の枠組みが壊れてしまうかもしれないと、

途中で、お互い見ないようにしたのだ。

 

見てしまったら、壊れる可能性がある。

子供が生まれたあと、そのことが怖かったから。

 

目の前にいる子供と家庭を守ることに集中して、

相手との違いは寛容に、見て見ぬふりをして、

違いを感じてもすりあわせることなく、

子供を育てる環境を脅かさない限り、

荒立てず、見ないことにして、

日々を生き延びてきた。

 

20年近くたち、

子供たちがある程度育ち、

その後の生活が射程に入ってきた・・

ここまできて、ぼんやり夫を視野に入れるようになってきた。

 

なんやかや言って、

良い夫であり、良い父親だ。

 

まぁ、彼だったから、

私が結婚したり、

家族になったり、

子供を育てたり、出来たのだと感謝している。

 

子供ができ、

仕事を辞め、

自分が不安定になっていた、あの時に、

彼と完全に向き合い、

魂を削るような恋だ、愛だとやっていたら、

きっと私は、子育てに必要なエネルギーや心の安定は得られなかっただろうから、

結果として、

この関係でよかったと思っている。

 

お互い魂がとけあう、魅かれあうようなパートナーではなけれど、

そういった時代を過ぎたあとに、お互い結婚したのだし、

良い思い出があれば、

そんなのと関係のない、穏やかな関係で家族を築いたほうが

心安らかだと思っている。

お互いにそうなんだと思う。

 

彼のほうも、過去の思い出や母親がいることで

真のパートナー不在を埋め合わせているのだろうと思っている。

 

そのバランスをうまくとってきた関係が、

義母の健康不安、義母の生活不安の高まりによって、

すこし揺らぎ始めた。

 

義母は自分の役割を、嫁である私に担わせることで、

自分の不在を埋め合わせようと試みる。

 

全く同じ価値観の夫は、

私を知ろうとか、あらためて向き合おうとするような、大変な作業をするのではなく、

「介護を押しつけようとしているわけではないんだ。

 ただ、自分が弱っていくときに、側に人がいるような生活を望んでいるだけのささやかな親の望みをかなえてあげたい」

という、一見、あたりのよい言葉で、

子育て期間の終わったあとの、嫁にとっては負担でしかない

二世帯同居を言い始めている。

 

親の家を住みよくするために、

あーだ!こーだ!と

義母と夫が私の前で話始める。

 

私は、これまで、

義父母の家にいくと、私だけ家政婦状態にされ、

台所の隅に小さく息をつくしか

居場所がないので、

帰省してもMAX4日。

正月は12月に入ると鬱状態になり、

帰省中は、一日中台所に立つが、

自分は食べる気にもならず、

帰ることの出来る日を指折り数え、

これ以上長くいたら、

病気になるか、家を出るなぁ‥と思いながら、どうにか耐えてきたのに、

同居だと???

 

逃げ場であった子供のいない状態で、

あの空間に軟禁生活だと?

 

しかも、自分は私を置いて、転勤生活する予定らしく、

自分の親と私を残して、

親孝行したつもりで、

自分は自由に一人暮らしするつもりみたい。

 

年を取り、より生に執着し、自分の思い出にこだわり、

かたくなに、要求ばかりが深まっていく

そんな義父母の側に、誰もいないのに、私だけ置いていくことで、

自分たちの義務や責任を回避しようとするの?

 

そんなの私が無理でしょ。

私がもたない。

生きる意味が見いだせない。

 

介護をするのが死ぬほど嫌なのではない。

 

仕事として、

時間やルールが決まり、

きちんと逃げ場がある状況での介護は、

人が嫌がる状況も対処できる。

くさい人の便も、病気になりそうな死臭も、

仕事なら耐えている。

 

でも、でも、

 

無制限に、ただ働きを強要され、

見て見ぬ振りされることは嫌だ。

 

きちんと、対価は欲しいし、

仕事量をコントロールしたり、嫌なことの拒否権は確保したい。

 

仕事として、責任ある行動をすることはできるけど、

家族のような精神的な救いまで、与えることはできない。

 

年に2回、家事労働に使われただけの嫌な思い出と、

少しの家族ごっこの思い出しかない関係なのに・・。

 

世話になった恩義のある思い出は、夫や義弟がもっているけど、

だからといって、

私が家に守られたり、救ってもらったり、

そんな恩恵を受けた覚えはない。

なんだかしらないけど、

数か月分のパート代を費やして、

毎年2回、帰省して、

その間、ひたすら、台所仕事させられて、

酒のんだ義父に絡まれ、

内輪の親子の褒めあいを聞かされ、

うんざりした思い出しかない。

 

そんな私が、

死への孤独を癒すために、

精神的に側にいてほしいと、

死の淵に引きずり込まれることは拒否したいと思うのは当然では?

 

自分の両親でさえ、

ため息なのだ。

恩義を感じている両親でさえ、

これから大変だろうな‥

誰もいないから、私がみるしかないのか‥

と考えて、ため息ついているのに、

義両親まで・・勘弁してほしい。

 

死する人の家族介護を傍で見てきて、

思うのだ。

 

本気で寄り添うと、

介護が社会的に切り離され、

家族という、見えない壁に閉じ込められた時、

その中で、

一緒に伴走した者は、死の淵に片足を突っ込むことになる。

娘であれ、息子であれ、妻であれ。

 

それも構わないほどに、

一緒にいることに価値を持てる者、

魂のパートナーである夫婦や親子関係にある場合、

その者を失うその時まで、側にいたいと願う者ならば、

一緒に伴走ことを厭わないだろう。

しかし、

その人が亡くなった後は、

魂の半分が死後の世界に入り込んだように、

生の世界との境界線に生きることになる。

 

夫を見送った後の残された妻・・・

献身的な介護をした後に、抜け殻のように、

認知症を発症したり、

生きる気力を無くしてしまったり、

そんな姿を数多くみてきた。

 

夫が「ささやかな願い」と呼んだ「人生の最後まで、家族がそばで過ごすこと」を願うこと。

 

それは、残された者の生の世界に、死を引き寄せることを許す

という、

夢のような願いだ。

 

私自身は、自分のあとの世界を生きるはずの、自分の子供や孫たちに、

そんな負荷をかける、図々しさは持つことは出来ない。

 

家父長制という嫁を家にしばりつけ、犠牲を見て見ぬふりして許される

魔法のような仕組みでもない限り、

自分の身を削って世話した子供でもない、他人に、そんなことを願ったり、強要したりすることは許されないだろう。

 

仕組みがあって、

身動きできないほどの圧力があって、

成り立っていたもの。

 

そんなものを、これから先、社会が維持することが出来るわけはなく、

 残されてもいないのに、図々しくも、まだ望むのか?と驚く。

自分の犠牲が、将来、自分の息子の嫁の犠牲によって、報われるわけでもなく、

その人が死にいくとき、

側にずっといたいと願ってくれる人は、

それまで、自分が、自分の身を犠牲にしてまで与え続けた人による、

無償の愛でしかなく

そんなの、当たり前のように、手が届く願いではあるはずがない。

 

今の時代は、

一人一人が、孤独に老い、死んでいくことを前提として成り立っている。

効率を追求し、生を謳歌するために、

社会から、死を見えないところに追いやって、過ごしてきたのだから。

 

そういう社会を行き、享受してきたのに、

自分たちだけは、

負の側面を受け入れないのだろうか?

 

私が、お金にならないのに、

訪問介護を続ける理由は、

たった一人で、老い、死んでいこうとしている多くの人たちを

しっかり見て、

その中で、自分は何を最後まで大切に思うのか?

必要とするのか?を見極めたいから。

 

家族に依存し、

勝手に、安心を手に入れようと望み、他人に強要するなんて、

浅はかだ。図々しい。

 

誰が先に亡くなるなんて分からないし、

基本、老いも、死も、自分一人の問題だ。

だけど、

それぞれの人が、同じように、たった一人で向き合わなければならない

心細い、不安なことだから、

共にシェアできるし、

一緒に向かい合うことが出来る。

 

そこさえ、間違わず、

謙虚に向き合えるならば、義父母を見守ることも厭わないのに、

勝手に、

私が同居すること、

自分の選んだもの、欲しいものでもないのに、

彼らが好ましいと思ったものを、

当たり前のように、押し付けられ、

自分たちの理想の中に当てはめるように、

駒扱いされている現状には腹が立つ。

 

転勤族で、

長い間、子育てしながら、培ってきた人間関係をゼロにしてまで、

近居という理由で、この地に帰ってきた。

いざという時に、すぐに帰ってこれない

そんな不安から、義父母は解消されたのではないの?

それだけで、私がすべき親孝行は充分に果たしたのではないかと考えている。

 

それなのに、

彼らは、

数十年前の彼らの思い出に浸りながら、

その幻影が維持されるのが当然かのように、

狭い価値観で形作られた彼らのお城に、

私を引きずり込み、

彼らの考える善意によって、

私から生きる気力や、選択の自由を奪いながら、

駒として使おうとしている。

夫も私を役割以外で見ようとしないので、それに気づかないし、気づかないふりをしようとする。

私も主体的に生きているのにな‥。

 

 そんなことを改めて考えた。