コロナが日常生活に入ってきて一年。
毎日、夕方には、住んでいる街の感染者数と死者数に一喜一憂し、
生活の全てにおいて、まずは感染リスクが頭をよぎる生活になった。
テレビのワイドショーでは、かかった人の大変さがいつも報道されており、
有名人が亡くなると、
少しづつ緩んでいた感染対策の引き締めが行われる。
自分が万が一感染したら、
万が一亡くなってしまったら、どうなるのだろう?
一度、リアルに考えて、
今できること、始まってからでは手が付けられなくて、
心残りになってしまいそうなことをやっておきたいと思う。
例えば、金融資産の整理。
バラバラに、いろいろなパスワードで管理されているものは、
あっても、ないものと同じ。
残された家族が自由に使えるように、
簡単な手続きで済むように、
まとめたり、整理したりしておきたい。
これまで、人とつながった社会の中に自分の存在があり、
自分の価値を高める必要を絶えず感じていたけれど、
こうやって、
人とのつながりが消えた生活を続けているうちに、
マウンティング意識も、
人から特別に思われたい!という意識も薄まってきた。
最後は、自分との付き合いがずっと長く続くのだと思うと、
小さな声で、自分につぶやきかけている、自分の「嫌!」という声をきちんと拾い上げて、我慢せずに、立ち止まって、自分の心をケアしてあげることのほうが、
大切だと思うようになってきた。
他人からチヤホヤされると気持ちいいけど、
自分が死ぬとき、辛い時、大変な時、チヤホヤしてくれた人たちが側にいてくれるわけではない。
きっと、持ち上げる必要がなくなって、
何かの役目を果たせないとなったら、
次の人を探して、すり寄っていくだけで、
その場にいられなくなった人に対しては、
意識から外されるだけだろう。
活動的に、有り余るエネルギーで、周囲に貢献している間だけの関係だ。
でも、自分自身はずっと自分と一緒にあり続ける。
心穏やかに、
自分自身を満足させるのも、自分自身であるべきだ。
衣食住、生きていくのに必要な最低限を、
自分が安心して、安全に感じられるものにしていく。
他人から「いいね!」してもらうために、
エネルギー注力するより、
自分が納得して、自分が満足して、自分がちょっと満たされるようなもの・・
そういうものを追求したい。
コミュニケーション手段として、
自分のステイタス確認の場所として、
衣食住を利用すると、疲れる。
若いころは、自分の市場価値を、他人が勘違いするように、
高く、高く見せることに注力してきた。
そのことによって、チャンスを手に入れ、
自分のステイタスをあげる戦略をとってきた。
忙しい世の中では、結構、そういう戦略が上手くいくときもある。
でも、勘違いさせて手に入れた新しいステイタスは、
自分が心からリラックスできるものではないし、
絶えず、自分自身への変革が求められるし、
エネルギーを消費する。
仕事を離れると、
一切の家事をしたくなくなり、
化粧も、風呂も入りたくなくなる。
オフの日。
本当の自分に戻るために必要な日だったのだろうな‥。
子育て中は、
その戦いが、子供の市場価値をあげることに移ってしまい、
教育という名の子供の人格や自由の否定や、
比べては焦る、せかす、金で言わせて、下駄をはかせようとする・・手段に移行。
子供の背が私と並び、
学力を追い抜き、
大人になってくると、
私の過干渉が彼らに与えてしまった悪影響を痛感する。
一人の人間として、
彼らの人生は彼らの物であるということ。
そこをわきまえて、
心配しても、コントロールしないようにしていると、
ぽっかりと、
何もない自分だけが残された。
子供たちの生存のために、絶対に生き抜かなければならないわけではないし、
社会的に、大きな責任を背負っているわけでもない。
私は、この社会の中で、
他人と同じように、守られて、
他人と同じように、迷惑をかけない限り、いることを許されているだけの存在。
自分の寿命の尽きるまで、
他人や社会の重しにならずに、
出来るところまで、
自分で自分の身体や心、生活をケアしながら、
生きていきたいと思う。