50代からの新しい生活!

子育て、転勤生活ひと段落。夫は定年間近。親の介護目前で、ギクシャク。新天地での新生活は、自分の老後も視野に入れながら、始めます。

メメント・モリ「死を忘るなかれ」 コロナ下での生き方

コロナが日常生活に入ってきて一年。

 

毎日、夕方には、住んでいる街の感染者数と死者数に一喜一憂し、

生活の全てにおいて、まずは感染リスクが頭をよぎる生活になった。

 

テレビのワイドショーでは、かかった人の大変さがいつも報道されており、

有名人が亡くなると、

少しづつ緩んでいた感染対策の引き締めが行われる。

 

自分が万が一感染したら、

万が一亡くなってしまったら、どうなるのだろう?

一度、リアルに考えて、

今できること、始まってからでは手が付けられなくて、

心残りになってしまいそうなことをやっておきたいと思う。

 

例えば、金融資産の整理。

バラバラに、いろいろなパスワードで管理されているものは、

あっても、ないものと同じ。

残された家族が自由に使えるように、

簡単な手続きで済むように、

まとめたり、整理したりしておきたい。

 

これまで、人とつながった社会の中に自分の存在があり、

自分の価値を高める必要を絶えず感じていたけれど、

こうやって、

人とのつながりが消えた生活を続けているうちに、

マウンティング意識も、

人から特別に思われたい!という意識も薄まってきた。

 

最後は、自分との付き合いがずっと長く続くのだと思うと、

小さな声で、自分につぶやきかけている、自分の「嫌!」という声をきちんと拾い上げて、我慢せずに、立ち止まって、自分の心をケアしてあげることのほうが、

大切だと思うようになってきた。

 

他人からチヤホヤされると気持ちいいけど、

自分が死ぬとき、辛い時、大変な時、チヤホヤしてくれた人たちが側にいてくれるわけではない。

 

きっと、持ち上げる必要がなくなって、

何かの役目を果たせないとなったら、

次の人を探して、すり寄っていくだけで、

その場にいられなくなった人に対しては、

意識から外されるだけだろう。

 

活動的に、有り余るエネルギーで、周囲に貢献している間だけの関係だ。

 

でも、自分自身はずっと自分と一緒にあり続ける。

心穏やかに、

自分自身を満足させるのも、自分自身であるべきだ。

 

衣食住、生きていくのに必要な最低限を、

自分が安心して、安全に感じられるものにしていく。

他人から「いいね!」してもらうために、

エネルギー注力するより、

自分が納得して、自分が満足して、自分がちょっと満たされるようなもの・・

そういうものを追求したい。

 

コミュニケーション手段として、

自分のステイタス確認の場所として、

衣食住を利用すると、疲れる。

 

若いころは、自分の市場価値を、他人が勘違いするように、

高く、高く見せることに注力してきた。

そのことによって、チャンスを手に入れ、

自分のステイタスをあげる戦略をとってきた。

 

忙しい世の中では、結構、そういう戦略が上手くいくときもある。

 

でも、勘違いさせて手に入れた新しいステイタスは、

自分が心からリラックスできるものではないし、

絶えず、自分自身への変革が求められるし、

エネルギーを消費する。

 

仕事を離れると、

一切の家事をしたくなくなり、

化粧も、風呂も入りたくなくなる。

オフの日。

 

本当の自分に戻るために必要な日だったのだろうな‥。

 

子育て中は、

その戦いが、子供の市場価値をあげることに移ってしまい、

教育という名の子供の人格や自由の否定や、

比べては焦る、せかす、金で言わせて、下駄をはかせようとする・・手段に移行。

 

子供の背が私と並び、

学力を追い抜き、

大人になってくると、

私の過干渉が彼らに与えてしまった悪影響を痛感する。

 

一人の人間として、

彼らの人生は彼らの物であるということ。

そこをわきまえて、

心配しても、コントロールしないようにしていると、

ぽっかりと、

何もない自分だけが残された。

 

子供たちの生存のために、絶対に生き抜かなければならないわけではないし、

社会的に、大きな責任を背負っているわけでもない。

 

私は、この社会の中で、

他人と同じように、守られて、

他人と同じように、迷惑をかけない限り、いることを許されているだけの存在。

 

自分の寿命の尽きるまで、

他人や社会の重しにならずに、

出来るところまで、

自分で自分の身体や心、生活をケアしながら、

生きていきたいと思う。