夫との会話がない。
気軽に話せない。
いつも上から目線で、
間違いを指摘したり、
論拠を求めたり、
アドバイスしてきたり、
従わせようとしてきたりするので、
発話したくない。
相手を慮って、
「こういったら、こう受け取られて、こうなるよね」と
予測して、話せとよく言われる。
仕事だったり、なにか目的のある時は、それでよいかもしれないけれど、
家で、仮面を脱いで、
リラックスしているときまで、
そんな戦闘態勢でいるのはしんどい。
ただ一緒にいる。
仮面をつけずに、
格好つけずに、
自分の心と向かい合うように、
気を遣わずに、そこにいる。
その中で、
自然にしゃべったり、
相手にかかわったりするのが、普通の状態なのに、
夫が外から持ちこむ倫理は、
人の意見を押さえつける。
バカにする、考えのなさを指摘する、
自分の正当性を押しつける。
だから、居場所がなくて、
しゃべらなくなり、目をあわせなくなり、
笑顔がなくなり、
自分を守るために、目をつぶる。
存在を意識の外に押しやろうとするから、
いなくなるとほっとするし、
圧がなくなる。
コロナで、社会が激変して、
今までの論理が通じなくなって、
その中で、とりあえず対応しているのは、現場の若い人たちで、
高齢者に片足突っ込んでいる管理職の夫の常識は、
まわりくどく、実践的でなく、
現場に負荷をかけるばかりで、
あまり役に立たない。
自分のまわりに豊富にあったコネクションは、
社会からは時代遅れと一掃されつつあって、
これまでの常識は、
常識ではなくなりつつある。
そんな中で、
自分の正しさを、家庭内という聖域においては、
強く押し出し、
自分を守ろうとする。
会社において、自分たちが中心でなくなりつつあるために、
社会環境とのアップデートが出来ず、
隅に追いやられる不満や気づきが
会社では抑えられていても、
家庭内で
同じように感じたときは、
過度に反応する。
そんなイライラを感じるから、
こちらも察して、
近づかないようにしてしまう。
しかし、子供たちは、今の世の中に対応し、変化し、その中で、生きていくすべを身につけなければならない。
私よりも早く、社会適応して、たくましく生き抜いていってほしいと思う。
だから、
主人の常識にどっぷり浸かってほしくない。
仕事一辺倒だった主人の家庭内の居場所は、
私がとりもち、作り出してあげることで、
子供とかろうじてつながり、できあがってきた。
子供も大きくなった今、その役割は必要ない。
地域の狭い社会でのつながりも、私が話さなければ、存在しない。
空っぽだ。
だけど、その空っぽの中で、
自分の居場所を見つけて、
孤独だけど、
細い糸で人とつながって、
生きていくのが、
老後の生活なんだろう。
大きな物語は壊れつつある。
それでも、尚、人は生きていく。
薄い空気の中で、
自分とつながって、
それでも、毎日は続いていく。