同じ年代の書き手さんなのだろうな・・。
「小説家になろう」で読んでいた小説に、リアルな風景がよみがえることがある。
そう、そう、こんな感じだったよね。
初めての男女交際、
初めての出会い、
初体験
結婚相手との出会い
新婚生活
出産、子育て
・・そういったものを経て、たどり着いたのが今。
そして、目の前には、
夫の退職
老後の生活、
介護
先立たれたり、病気を抱えたり・・。
一人ぼっちになったり
貧困に直面したり
死んだり・・。
と、あまり楽しそうでない未来。
今、ここに立ってみて、
過去を振り返ると、
選択はいろいろあったと思う。
その場、その場で、
何かを捨て、なにかをあきらめ、
こちらに進む・・と選択した分岐点が存在する。
その結果、すすんでたどりついた世界が、今の自分のいるところだ。
あの人と結婚していたら・・。
仕事を辞めなかったら・・。
どこに立っていただろうか?
それは、夫にも言えることで、
離婚しなかったら・・。
上手く結婚生活が送れていたら・・。
再婚しなかったら・・。
結婚相手が別の人だったら・・。
今は、もっと幸せな生活をしていただろうか?
あの時点で、夫を選んだり、子供を産むことや仕事を辞めることを選択した。
仮に、あの時に戻って、人生をやり直せるとしても、
同じ選択をしたと思う。
あの時、他の選択をして、自分がもっと幸せになれたかな?と考えると、
私は、弱すぎたし、
想像力が足りなかった。
未知のもの、新しいものに挑戦するだけの能力や力が足りなかったし、
体力や精神力も備わっていなかった。
難しかったと分かる。
あの時、私が選択しなかった選択肢を選び、結婚し、子育てをした友人たちもいる。
より、しなやかに、柔軟に新しい環境に適応し、
私の手の届かない遠くまでたどり着いたかのようにも見える。
客観的には、
羨ましかったりするのだけれども、
私が仮に彼女たちの立場に立っていたとして、
彼女たちが闘い、一人で乗り越えてきた様々な壁を
私は乗り越えられただろうか?
タフで、大人の顔をして、
自分自身を鼓舞し続けられただろうか?
ないものねだりして、
「安定」や「安心」を求めて、
心を病んだりしていないだろうか?
今の楽ちんで、
なんのプレッシャーのない生活さえも、
「退屈」だ、「生きている意味を感じない」という理由で
鬱々とし、自分自身の力で改善することが出来ないのに、
そんな自分が、乗り越えられただろうか?
私は「自由」がないと、生きる意味のようなものをすぐに失ってしまう。
だから、
結婚するまで、
とにかく自由に選択できるようにを重要視してきた。
高校時の進学選択時も、
「親元を離れたい」「都会に行ってみたい」
職業選択の時も、
「いろいろ知りたい、見てみたい」という好奇心。
だから、「簡単に、お金を稼ぎたい、エネルギーを嫌な拘束されるものにつぎ込みたくない」「世界中、会社の金使って、飛び回りたい」
結果「自由に好きな時に、好きなことできる」自由を手にいれた。
満足したけれど、
一時すると、
たった一人で見ていても、体験してしていても、
寂しいと思うようになった。
だれか、一緒にいたい。
子供と見たい・・という気持ちになった。
「継承したい」という欲求がうまれた。
横への広がりから、
時間という縦の広がりに興味がうつった。
「子供を持ちたい」となると、
「子供を産んで育てる環境」が必要になり、
そのための、安定や安全が必要になる。
子供と一緒にいれて、
成長を間近で感じられて、
同じ時間を同じ空間で長く過ごせる、
お金や生活に心配をしなくていい。
そんな家族が必要になる。
夫は、そのためのパートナーとして「当たり」だったと思う。
日本で、私を選んでくれるような人で、
ちょうどあう人は、夫以上にありえない好物件だったと思うけれども、
今、
子育てに必要な分業制のパートナーとしての役割が互いに終りつつあり、
次の段階にに入る。
1対1で向かいあう、
自分のパートナーとしての相性はどうか?と問われると、
「合わない」タイプだと思う。
彼にとっても、もっと「合う」タイプはいるだろうし、
私にとっても、一緒にいるだけで、前向きになれたり、
エネルギーを循環させてくれる相性のいい人は、
他にいると思う。
どちらかというと、一緒にいると、
「ムカムカ」して、反発しあい、
牙をむきだしたくなる相性のなさだ。
一般に言われる「好条件」男子は、
社会的に地位が高め。
社会的なヒエラルキーの上にいるわけで、
自ずと、競争に勝つための闘争心や能力が高くなる。
瞬時にその人の「階層」を判断し、
弱いところを攻撃したり、
ポーカーフェイスで、
足を取られないように、くぎを刺したり、脅したり、
自分の欲求を勝ち取ることに長けている。
「結婚相手を選ぶ、選ばれる」という主戦場では、
好条件のハイスペック男子から選ばれることは無条件で嬉しいし、
自分の女の子としてのステイタスを一気に引き上げてくれるようで、
そこを目指して、爪を研ぎあう女の闘いが行われる。
しかし、
結婚してから、子育てして、
生活のパートナーとして求められるのは、
そんな闘いに必要だった戦闘能力ではなく、
「価値観が同じ」「協力し合える」「相手への思いやり」、
「気づく能力」「不動の忍耐力」「柔軟性」だったりする。
社会的ヒエラルキーを後天的な能力や努力で勝ち上がっていくようなタイプの人間にとっては、
上記の能力は、ヒエラルキーの下のほうに甘んじて生きていくしかない、
要領の悪い、コスパの悪い人間に必要な能力と認識して、
重要視して生きてこなかった感がある。
でも、
幸せになるには、
温かい家庭を作るには、
欠かせない能力なのだ、それらは・・。
そういった大切なものに欠けた、不完全な私たちが、
親族・地域ネットワーク切り離されて、
子育てするのは大変で、
いろいろごまかし、悩みながら、
試行錯誤し、
どうにか大きな病気やけがもなく、
ここまで大きくなった。
成人した。
あとは、親は手を引くしかない・・そんなところまできた。
子供たちは、
他人と比べると、
足りないものだらけで、
社会的ヒエラルキーにあてはめると、
勝ち抜いていけるだけのやる気も能力も足りず、
なにかあると、踏みつぶされたり、
転げ落ちたりしそうな、
ぼんやりした、優しい男の子に育った。
いろいろと心配しかない。
私が孤立育児で、いっぱいいっぱいで、
自信がなく、
心配しすぎて、
先回りして、
手を出しすぎて、
そして、
こんな子に育った。
今考えると、間違いだったと思えることも多い。
だから、まだ間に合うから、
これからは、
手を出しすぎない。
監視しすぎない。
頼りすぎないようにしようと思う。
専業主婦をやってきた私は、
子供だけを理由に存在していた役割が、
なくなって、
存在理由がなくなった。
消えそうな「家庭」
そこに私のこれからの居場所を見い出すとするならば、
夫とパートナーの関係を
これまでのように見ないふりするわけにはいかないだろう。
それがかなり難しいのだけれども・・。
私達はまともにぶつかると、
「家族」の形態をぶっ壊しかねないように、相性が悪いのだ。
自分の存在意義をかけた闘いに突入し、
そこで負けると、
自分自身が死んでしまうのでは?という追い詰められた闘いを繰り広げてしまう。
そうならないために、
「自分に閉じこもる」
「見て見ぬふりをする」
「存在を意識外に押しやる」戦法を編み出したのに、
家庭に2人しかいなければ、
逃げてばかりのわけにはいかなくなる。
新婚当時は、
まともにぶつかり合い、
声を荒げ、
傷つけあって、
幼い子供の姿に、己を反省し、
折り合ってきたのだが、
子供という楔のなくなった今、どうすればいいのかな?
夫は、上から目線で、
相手が従うまで、論破しようと、己の話術を駆使する。
そうなると、私は、自分の素直に感じる気持ちや、
表現を封じられ、
そのままの自分の居場所がなくなる。
「自由」がなによりも大切な私にとって、
そこを封じられると、息が出来なくなってしまう。
暗雲たる老後しか見えない。
若い世代の子育て風景を見ていると、
私の時と全然違っていて、
マウンティング要素が全くない。堅実、実直に見える。
それが正しいんだろうな、子供にとってもと思う。
でも、
自分がそういった子育てが出来たか?というと、
自分の価値観がそういうふうに出来てなかったから、無理だっただろうと思う。
いろいろ犠牲にして、あきらめるのだから、
子供には最高の環境を!
今しかないのだから、特別を!
そういった子育ては、子供のためというより、自分の気持ちとの折り合いをつけるためだったと、今は思うけれども、
それが楽しかったからしょうがない。
その楽しさのない、淡々とした子育ての時間に自分が耐えきらなかったのだから、しょうがない。
今だと出来なかっただろう。
時代がゆるしてくれたのだから、それを享受しただけ。
バブルも一緒!
バブルに踊って、楽しかったし、
面白かった。
あの時、バブルだから・・と踊らなかったとしたら、
あの時しか出来なかった貴重な機会を逃しただけだったと思う。
今、潮流が変わって、否定されることだったとしても、
あとになって、別の選択をしたほうが、今の潮流にあっていて、結果良かったとしても、後悔することではない。
あの時、一生懸命生きて、
あの時を享受して、
踊って、
わくわくして、楽しんで過ごしたことが
私なのだから。
さぁ、これからの選択を
しっかり悩んで、迷って、結論出したり、出さなかったりしながら、
生きていこうと思う。