自分が人より劣るところを考えたときに思い至るのが、
「やり続ける力」
運も良く、チャンスにも恵まれ、
そこそこ目のつけどころも良く、
早くから「その場」にたどり着くことは出来るのだけれども、
結果として、
何も積み重ねていない、何もない自分がいる。
同じような場所にいて、
壁にぶつかって、
辛くなって、
逃げ出したい状況になった時に、
そこで、最後まで、淡々と踏みとどまって、
つぶれることなく、
やり遂げる力がない。
逃げ出したい状況が生まれたときに、
自分のエネルギーがマイナスの方向に使われる状況になると、
人より早い段階で、
対処しようとしてしまう。
まずは、逃げる。
その場から一目散に安全な場所に逃げる。
自分の安全を確保して、
そこから見ていると、
どんなに疲れる状況でも、日の当たらない状況でも、
押しつけられた理不尽な状況でも、
その場に踏みとどまって、顔色変えずに、やり続ける人がいる。
それは、いつも日の当たる場所ばかりを歩いているような能力にあふれた、
注目の的の人とは限らないし、
普通の人だったりするのだけれど、
時間がたち、
不安が払しょくされ、
再び評価されるようになった時に、
ずっと縁の下で頑張り続けた彼、彼女たちがいたから、
続いているのだな・・というような道が出来ている。
何が違うのだろう?
私と彼らは・・。
何かに直面した時に、
その場に踏みとどまるだけの胆力というか、
器が違う、彼らは大きいと感じる。
私は自分ひとりのことさえも、
健康で、うまく回っているとき以外は、
たったひとりで対処する力がない。
困ったら、親を頼るし、支えてもらう。
結婚して、子育てして、親が老いて・・と
自分以外の世話をしなければならなくなった時、
負担が大きくなると、
全てを抱えて踏ん張る力がなく、
「自分が背負える範囲に、いかに負担を軽減するか」
「自分だけで背負うのではなく、負担軽減のために、他の人を巻き込むか」
を第一に考えてしまう。
親の介護に関しては、
昔の価値観のまま、「嫁が担うべき」という意識を持たれると、
結果として、
私一人で、自分の親と夫の親の4人を押しつけられることになり、
自分がつぶれる未来しか見えないので、
線を引く。
まず、私が「昔の価値観」に縛られないように、
望まれても、望まれたとおりに動かない。
私が動かないことに慣れてもらう。
困ってもらう。
そして、どうしようもない時は、私も手伝うというスタンスをとる。
人より器の小さい人間は、
それでも、つぶれないノウハウを自分で編み出さなければならない。
人を抱える余裕はないし、
それが社会的に望まれ、押し付けられていても、
自分自身を第一に考えていきたい。
年を取って、衰えてくると、ますます、余力がなくなり、
自分自身を一人で支える力さえもなくなってくる。
その中で、
人を支えてこなかった自分が望むのは、
最後まで、出来るだけ最後まで、
温存したエネルギーを使って、
自分自身で自分の力で立って生きていきたい。
50になって、
もしかすると、90近くまで生きる可能性もあって、
まだまだ先が長くて、
それなのに、
エネルギーいっぱい、どんと任せて!!と言えるような状況ではなく、
これから先、すごくよくなることも見えず、
落ちていく未来しか見えない。
その時に、出来るだけ長く続けられるような、
小さなエネルギーしか使わない、
マイナスの負荷の少ない、
生活を作っていく。
エネルギー温存を目標に、
何もしないと、
使わない能力は、失っていくだけで、
どんどん衰えていく。
筋トレと同じで、
自分の能力を正確に見極め、
そのぎりぎりをやり続けなければならない。
無理はしてはいけない。
壊れてしまうような無理は絶対してはいけない。
人にコントロールされてはならない。
自分にしか、自分の器の大きさは見極められないから、
自分がコントロールしなければならない。
夫のように、私よりずっと大きな器を持つ人の常識で、
決めつけられたり、
期待されたり、誘導されたりしてはならない。
その自分の行動を決定する自由は最後まで手放さない。
この最後まで・・というのは、
死ぬまでもったら、いいなと思う。
ほとんどの人は、身体が不自由になったり、認知症になったりして、
介護が必要になって、
人の助けによって生かさるということは、
助けてくれる人次第という部分が出てきて、
自己決定の自由は制限される。
だから、身体のメンテナンスは大切だと思う。
頑張れ!器の小さい自分!!