義父が亡くなってからの、義母の右往左往。
だれかがずっとそばにいて、
自分の喪失感に寄り添って、
義父との生活を失った悲しみに、ただ寄り添い、傾聴して、
共感してくれる人を求めている。
義父への愛を同じように感じているのは、
自分の息子たちしかいない。
しかし、
息子たちをずっと拘束することは出来ない。
だから、その代わりに、
息子の嫁や孫たちが、
息子の代わりに、
息子と同じように、
義父のいなくなった喪失感を共感し、
義母の喪失感をうめるために、寄り添い、
大事にあつかってくれることを期待する。
しかし、
嫁も孫も、年に数回、夫の「親孝行」につきあって、
貴重な休みをつぶして、
多額の交通費を捻出して、
ただ働きをしてきて、
そこには、
楽しさも、感謝も、愛情もないし、
単なる、義務感とストレスしかなかったので、
義母に寄り添っていても、
さらなる時間やエネルギーの拘束が増えるだけで、
そんなかんじで、むりくり一緒にいても、
義母の心も癒されないし、
孤独感も埋まらない。
側にいればいるほど、「孤独感」を際立たせてしまうので、
今はこれ以上傷つけないように、
ちょっと離れたところから見守るほうが良いのかもしれないと思うようになった。
義母の周りは、
親身になってくれるのは、息子しかなく、
娘がいない。
ずけずけ指摘しながらも、
言いたいことを言いながらも、
側で助けてくれる、母娘の関係は、「毎日の生活を回す」という共通意識があるため、
何をあきらめ、何を得るのか
取捨選択が可能だし、
面倒くささの共通認識があるから、
物事が効率的に回っていく。
マザコン息子と母親の関係は、
依存しあっていて、
息子は母親を無制限に受け入れるか、見ていぬふりをするかしかできないし、
母親も、息子に対しては、
見捨てられるのが怖くて、言いたいことが言えなかったり、
お互いに、思いあっているのに、
必要のないことばかり、形ばかりが、他人にみせつけるように、
誰かに評価してもらいたがるように、
非効率な善意の往来があるばかりで、
物事は何も進んでいかない。
息子に頼ってもしょうがないので、
自分の住処で、
自分の地域の友人と、
同じ立場や、同じ困難に協力して立ち向かってきた仲間と、
自らの長年培ってきた知識やつながりで
「独居」「高齢」という難題に
立ち向かえるように、
しっかり自分の足で生きていきたいと思う。
それなのに、
同じように、将来使えないであろう「息子」しかいない、
私たちに、
自分の思い入れの枷をはめて、
私達のこれからが難しくなる、場所に、住処を持たせようとすること、
私達のこれからを無駄に消費するような、
時間やエネルギーを要する、女王様・義母のわがままに振り回されそうになっていること・・
マザコン息子たちの代わりの親孝行に利用しようとされることに、
腹が立つのだけれども・・。
まぁ、義母に対いて、なんやかや思うよりも、
自分が同じ立場に立った時に、
しっかり一人で立てるように、
そちらに注力していきたい。