これから10年後、私は63歳、夫70歳、子供たち30手前
これから20年後、私は73歳、夫80歳・・・
あと10年、20年後、今のように健康かしら?
最近、ちょっとしたストレスで、睡眠が乱れる。
空気が乾燥しているのか、鼻の中が腫れて、深い呼吸が出来ない。
のどがカラカラ。
追い詰められる夢を見る。
苦しい。動悸がする。
そして、ヘンな時間に目覚めると、それからなかなか寝られない。
睡眠不足で、朝が起きれない。
偏頭痛がする。
歯を食いしめて、歯が痛む。
そんな中で、毎日を生きる。
次から次へと対処しないといけないことがおこって、
とりあえず、頑張って、
一息ついたら、好きなことしよう、今は我慢しよう、と、
したいことは、今は出来ないとあきらめて、
楽しいことや好きなことからは遠ざかって、
何もない毎日を過ごす。
そうやっているうちに、
楽しかったことは全て過去のもの。
好きなものは、遠くて手が届かない。
毎日背負わされた、自分がえらんだものではなく、しょうがないからと引受けたものに対処することに追われて、日々が過ぎていく。年を取っていく。
今の若さが徐々に失われて、
さらに動けなくなって、
さらに頭が働かなくなって、
そして、さらに選択肢が限られていく日々。
今なら、まだ出来るのでは?
今なら、まだやれるのでは?
10年後、20年後を鑑みたときに、
まだ認知症を発症してしなくて、
まだ両手足動いて、
まだ自由なお金もあって、
まだ一人前の人として認めてもらえていて、
まだまだ自由な時間もある
社会的地位がない。
若さがない。
美しさがない。
体力がない。
無理が効かない。
無限のエネルギーがない。
無限に使えるお金がない。
テレビでみる、世の中にあふれる「あるもの」が
私の周りにはないけれども、
実際に出会う、
訪問介護で介護される、ぎりぎりの生活をしている人たちと比べると、
私にはまだたくさんのものがある。
若くても、
お金があっても、
介護を必要とするような、健康を害した人たちからすると、
介護されるのではなく、
介護をしてあげれるくらいの、体力や健康があるだけで、羨ましい。
介護でへとへとになって押しつぶされそうになっている家族からすると、
ケアに時間が終われば、自分自身の時間に戻る自由があることが、
涙が出るほど羨ましい。
そうやって考えると、
まだ、今の私にはやるべきことが、
やりたいことが、やらなくてはならないことがあるように思われる。
10年、20年たった時に、
自分が介護される側になった時に、
なにをどうやっていたら、
少しは家族の負担を軽くしてあげられるのだろうか?
生活をすっきり、シンプルにして、
他人がケアしやすい状態に整理整頓していく。
家の中を見渡しても、
自分の権勢を周囲に知らしめるために必要なものは、必要ないもの。
なにもなくなった時に、
その人の育ちを感じさせられるのは、
執着している「もの」ではなく、
「もの」や「人」との接し方。
「手入れ」や「大事にする心」。
お金のかけ方や、本当に良いもの、自分にとって必要なものを見極める目、
そんなものが、これから先必要になってくる。
死を前にすると、すべての価値は変わってくる。
「出会い」や「縁」、そういったものに意味を見出し
心穏やかに、にっこりしたい。
なにか上から教育されたり、与えられたりした知識を
他人に押しつけて、「ジンケンガー」と声高に叫んだり、
「SDGs-」と利用したりしている紅衛兵もどきに
そんなものに振り回され、むちゃくちゃにされるより、
テレビを消して、
日々の生活に向かい合って、
目の前にある課題を一つ一つ、最善を尽くして対処し、
そうやって、互いに影響しあって、
その地域がよりよくなって、
その国がよりよくなって、
世界が少しはましになって
その時代が意味あるものになっていく・・そんな日々を愛していきたいと思う。