50代からの新しい生活!

子育て、転勤生活ひと段落。夫は定年間近。親の介護目前で、ギクシャク。新天地での新生活は、自分の老後も視野に入れながら、始めます。

男の子を育ててみて感じたこと

自分が女の子なので、

子供を産むまで、女の子視点から世の中を見ていた。

子供は、自分から産まれて、

自分が育てて、

彼らの価値観を一からインストールしていったのは、私なので、

育児過程のその時々で、

〇歳の男の子の視点から世の中をみるようになった。

 

子供を産むまでは、

「虫なんか大っ嫌い」とキャーキャー叫び声をあげていればよかったけれど、

私が「嫌い」と拒否し、近づかないものは、

息子も、拒否するようになる。

 

虫にキャーキャー言って、

逃げ惑う男の子に育ってしまうのは、嫌だ。

 

魚釣り、

泥だらけ

目をキラキラさせながら、

危険なことをやってのける

近所の自由な男の子たちを見ていると、

健全に育っていくには、

とっても必要なことだと思える。

 

この時期にしか出来ないこと、

この時期に

親の価値判断でなく、

子供が自らしたいことを思いっきりやることが、

健全な発達にはとても大事だ・・ということはよくわかる。

 

母親、非力で無力な女の子である、私の視野は狭い。

夫のいうことが、

あとになって、正しかったと思えることもあるし、

長年この社会で当たり前とされてきた価値判断が、

戦後、女性蔑視として、けちょんけちょんにされてきたけれど、

このコミュニティを健全に長い間機能させるために、

人々が選び取ってきた結果だったんだな・・と

年を取って、老いて死ぬまでの、人生の流れを身近に感じて、

初めて、理解できることも多かった。

 

誰しもがちょっとずつ不幸になって、全体が縮小し消滅していくのを良しとするか?

それとも、

不幸に濃淡があって、理不尽なこともあるけど、

全体としては、豊かで、発展していくのがいいのか?

 

どちらが完全なる善で、

どちらかが完全なる悪であるかなんてことはない。

 

皆が、試行錯誤しながら、

より良い、よりましだと思い、

選択してきた結果として今がある。

 

「男の子」視点は、

自分の子供の成長をみてきて、

良く思ったのだが、

やはり自分とは違う。未知のものがある。

 

自分にはないから、夢があるし、わくわくもするけれど、

自分にはないから、どう導いていったらよいか分からないし、

自分の価値基準で判断すると、男の子の本来の良さをつぶして、こじんまりとした

母親にとって、都合の良い、枠に押し込めてしまう。

 

夫との関係が良く、満ち足りているならば、

息子にはめる枠も、そんなにゆがまないだろうけど、

夫や男の人と、弱肉強食のバチバチとした闘いをやっている女性にとっては、

未知なる男子の部分は、敵であり、

手なずけたいものだから、

愛という名の強制力で、

息子をがんじがらめにしてしまう。

 

老母にとって、

息子がずっといつまでも、自分の側にいて、

自分のいうことをきいて、守ってくれたら嬉しいだろう。

そういう、母のナイトとして、

幼い頃から育てられてきた男の人は、

結婚しても、子供が出来ても、

母の意向から切り離されないし、

母の介護も、母の死も、

自分の人生よりも大事になってしまう。

国よりも、社会よりも、家庭よりも、

なによりも、守らなければならないものとして、

幼い頃から洗脳されてしまう。

 

なにも出来ないのに、

母親の側を離れない、長男。

母の死の前に、自分の人生の死があって、

そんな息子を

「優しい」と手放しでほめる、母親。

そんな毒親を、訪問介護ではよく見てきた。

程度の差さえあれ、

うちの旦那もおなじだし、

母親の死を受け入れられず、お医者さんを殺してしまった犯人も

同じに見える。

 

病巣はここにある。

自分自身の人生を生きられない呪い。

 

それを繰り返したくないと、

自分の中の「女の子」の視野で判断せずに、

出来るだけ、

息子のなかの「男の子」の訳の分からない自由さを

手を出すことなく、

無力感に押しつぶされながら、

ただ見ていたら、

 

なんの教育もなされていない、

なんの世の中の役に立ちそうもない、

ただ、ゲームに反応するだけの、

ニートが育った。

 

中高と上がっていくたびに、

選別されて、

統一基準に沿った、選別に勝ち残ることが是とされ、

求められる学力をつけさせようと

尻を叩く。

 

兄の時、

有名私立に入れたけれど、

似たような男の子ばかりで、

その中でも、

トップ層は、生まれながらにして、良くできるし、

努力ではない部分を持っていた。

 

女の子目線からすると、

真面目に、勉強したり、

きちんとやったから、クリアできるものなのだけれど、

 

かけた時間とか、

努力とか、

そんなもんでは測り切れない、

無茶なことが、

勉強でも、部活でも、趣味でも、簡単にまかり通る。

 

優れた能力には、母親の押しつける真面目さは関係なくて、

出来る奴は出来たし、

出来ない奴は、やっても出来なかった。

 

無駄に、捻じ曲げた分だけ、失われるものの方が多いように思えた。

 

でも、学校教育の中で、

公立の中学で内申書のために求められる力は、

だれかがひいたレールをはみ出さずに、

いかに、まじめに、

誰かの判断する基準で、

結果を出していくか・・

そればかりで、

勉強でなくても、

コミュニケーション能力や、

人を巻き込む力とか、

言葉を変えても、

そういった、誰かの基準でよしとされるものに、

自分をいかにあわせていくかの調整能力は、

女の子の方が得意で、

姉妹のいる、男の子も出来るけれど、

そういったものが苦手な男の子も多い。

 

社会は、「女の子」の要求ばかり押しつけてくるけど、

それにしっかりマッチしてしまった「男」の人には、

「女の子」は魅力を感じないし、

対のペアになって、うまくいくことはあまりない。

 

バカで、マッチョな思考は、

バカだからこその力を時々発揮するし、

押しつぶして、無力化させるより、

上手に転がして、

女の子たちが逃げ出してしまうような、過酷な現場で、

しっかり貢献してくれる方が、

社会として、有効で、

パワーゲームや

ご褒美を餌に、

出力を上げて、走り続けてもらうのが、良し!となっていたはずなのに、

それをコロッと忘れて、

ただただ、批判し、

貶め、内側から毒をまき散らしているのが、

今の社会。

 

「人権」という錦の御旗をたてに、

やりたい放題をやってきて、

口をふさぎ、窒息状態にしてしまい、

気がついたら、

「人権」なんて、考慮もしない社会に

全体を飲み込まれようとしている。

 

本来の敵を見誤って、

本来の敵の駒として、利用されてきた人々。

あなたたちが嬉々としてやってきた闘いの勝利の結果、

声をあげた瞬間に、撃ち殺されるような

甘くない、恐怖しかない敵が差し迫ってきている。

 

「女の子」である自分の視野が狭く、

敵にとっては利用されやすい、無知の塊であったということ、

それは、

心したいと思う。