昨日から、安倍首相を暗殺した山上容疑者が岡山での暗殺未遂の前に投函したという手紙が公開されている。
また、山上容疑者のツイッターと思われるアカウントが発見されて、
遡って読んでいくと、
なんとなく人となりが分かっていくような気になる。
これが本当に、純粋無垢な彼の思想であったり、
ツイッターであるかどうかは分からない。
でも、読むと、こんなしょうもない理由で、
日本や世界の中心にいた人を死に追いやってしまったんだな・・という気になる。
「安倍さんの死」が世界的なシンボルとなる意味のあるものなのに、
一方で、
犯人にとっての「安倍さん」は自分の積年の恨みを効果的に晴らすために、
関りのある人の中で、もっとも、注目を惹きつけ、その死によって、
最も効果的に教団にダメージを与えることが出来るという1点のみで選ばれ、殺された「シンボル」に過ぎない。
そこには、彼の命や、やってきたこと、守ってきたこと、大事にしたいもの、
そういった、他人が好きなように奪ってはいけないものに対する躊躇は全く感じられない。
手紙の中でも、
彼の死によって、政治的に何をもたらすのか
その後の混乱があることについては、気づいているのも関わらず、
思考を放棄している。
自分には手の届かない、関係のない世界のように。
彼が、「自分の理由」だけで、手いっぱいで、
まわりの健全な社会とのつながりはない。
自分が幼い頃から、どうにかしようと、もがき苦しみ、
試行錯誤したけれど、
好転せず、
ずるずるはまってしまった地獄のような状況から、
兄弟も助けられず、
一人、一人と倒れていき、
じわじわと、敵の勢力は拡大し、
飲み込まれて行こうとしている無力感。
それにとって代わる、大きな物語を見つけることも出来ず、
ずるずると、じわじわと、母親や統一教会信者の世界が
逃げても、逃げても、尚、足元に広がっていく恐怖。
社会や世界が飲み込まれていく。
その中で、「嫌だ!」と強く思う自分がいる。
どんなに、それが違う!
間違っている!
嫌だ!と声をあげても、届かない。
笑顔を貼り付け、あなたのために・・と心から思っている母親やその仲間が、
手を差し伸べる。
その手をつかんだら最後、地獄に引きずり込まれる。
文章からすると、
聡明で、しっかりとその状況がわかっているからこそ、
こうなったとしか言いようがない。
結果として、
安倍首相というシンボルを選んだことで、
最大の効果をあげている。
確かに、妻を殺しても、その子供たちがいて、
バラバラに活動している状態では、
「組織にダメージを」という最大の目的をもたらすことは出来なかっただろう。
その点、冷静で、
明晰だと感嘆する。
しかし、私達は、彼を賛美する、今の風潮には「No」を言わなければならない。
効果的な結果をもたらすという、その一点で、
自分との関わりの薄い、だれかの罪のために、
殺されていいのだろうか?
多くの人々に影響を与えた、その1点で、
その人が努力し、積み上げてきた実績や信頼、
その人を大事に思う家族、仲間、国民・・
それを視界から、思考から、なくし、
ただ、自分のために、
「シンボル」を殺める
それが許されていいのだろうか?
安倍首相や政策決定者、リーダーと呼ばれる人たちが
今、見ている社会、この国と、
インターネットが隅々まで日々の生活に入りこみ、
現実世界での人と人とのかかわりがほとんどなく、
セイフティネットが全くない社会に生きている、
40代以下の若者、特に、マジョリティとして、
高齢者や障碍者のセイフティネットにひっかかるでもなく、
女性としてDVや性被害アプローチできるわけでもなく、
マイノリティとして、特別扱いされるわけでもない、
属性が普通の人たちが、
すごく困っているときに、
声をあげたり、助けて・・といって受け入れてくれたり
する場所は、ない。
弱者属性があれば、支援の手が入る。
行政も助けやすい。
しかし、
40代の健康な派遣社員の若者が、
助けてもらいたいとおもっても、
どのような形で、
いつ、
どこに向かって、
声をあげたら、
だれが彼とつながり、居場所になって、
健全な思考の社会につなぎとめてくれたのだろうか?
居場所がない。
属するものがない。
周囲を見渡しても、
自分より、もっと大変!悲惨!と大声をあげている人たちばかり。
彼、彼女らと比べると、
条件抽出だけでは、自分はマシなほう!と分類されるだろう。
精神障害もない。
ドラッグや依存症になってもいない。
犯罪もおかしていない。
社会的に、自分だけの力じゃ、どうしようもないよね・・と認識されて、
初めて、手がさしのべられる。居場所がうまれる。
そこには、行政からのお金がじゃぶじゃぶ流れ込んで、
上手くやれば、特別扱いばかりで、
勤労者、マジョリティの少しの我慢で、多くの恩恵が受けられる。
でも、そのカテゴリーにいれてもらえない、普通の人たちだって、
苦しんでいる。
人手不足、経費削減と、使い捨て人材の私達には、
自分の心を削りながら、無意味な労働とひきかえに、わずかなお金を得る。
わずかなお金から、社会保障だといって、
自分には使われることのない、多くのお金をとられる。
日々の生活の中の、わずかな楽しみも、
物価高騰、フリー素材の有料化で、
時間があっても、ただでとか、安く、人生を楽しめる場所はなく、
現実社会で、人と触れ合ったり、
目をあわせたり、笑いあったりしながら、
育んできたご縁もない。
見知らぬ人ばかりいる中で、
自分はいつも異端者で、
そこに属しているといえる場所がなく、
たった一人ぼっち。
笑顔で近づき、
手を差し伸べてくる人は、
騙そう、搾取しようとするような、関わってはダメな人ばかり。
コロナ下で、
ぐいぐい入ってくるタイプの善意の人たちも、
コロナの媒介者としてレッテルを貼られ、
善意で踏みとどまり頑張ってつないできた組織も、
多大なペナルティを押しつけられて、傷つき、崩壊していった。
今、皆、笑顔で立ち上がろうと奮起しても、
なんども、コロナの流行に阻まれて、
善きものが力をなくし、
悪しきものがつけ入る隙をうんでいる、
このような状況で、皆しんどいのだと思う。
そんな中で、
山上容疑者の手紙にシンパシーを感じる人は多いと思う。
政治家やリーダーたち、私達より少し上の、
昭和は脱却したけれど、バブルを知っている世代の世の中を見る目と、
ほんとに、なにもなく、
就職氷河期で、
上の世代の既得権を守るために、見捨てられた世代、
それ以下の、
貧しさしか知らない世代。
高齢者の貧困世代は、物質的に貧困でも、共同体に力があった。
精神的な豊かさや、自然の恵み、
地域の恩恵を受けて育った。
大きな物語を共有できて、
貧しくても孤独ではなかった。
でも、若者たちの貧困は、
つながりの消滅、居場所がない、
消費することで見て見ぬふりをしてきたバブル世代の空虚感を
ひきついだまま、金銭的にも立ち行かなくなり、
心の逃げ道であった、消費さえもできなくなった状態。
つながりがないから、
犯罪への敷居は低いし、
自殺も、
自己ネグレクトのドラッグやアルコールへの依存も多い。
若くて、健康で、頭も良くて、見かけもそこそこで、
高齢者から見たら、垂涎の的。
どうして、自分を売るようなことをするのか?
どうして、自分を、自分の人生を傷つけるような真似をするのか?
健康を害し、現実の痛みや貧困、不自由さと闘いながら、
毎日をかろうじて生きている高齢者からみると、
不思議に見えるかもしれない。
でも、
他の世代には見えない、
この状態が続くことが耐えれない・・そう思うような貧しさが
今の日本にはあるのかもしれない。