最近、ツイッターを毎日見ていた人が、亡くなり、
家族からのメッセージを読むことが何回かあった。
○○は亡くなりました。
最後の最後まで、ツイッターで世間とつながっていたことに
思いを馳せ、
遡って、読んでいく。
あ・・最後は、ここに希望を見出していたのか
こんなかんじだったのか・・
そうやって、亡くなった人の最後の時期を、
全く関係のない他人の私が読むことが出来る。
死ぬ経験、
死んでいく経験をした人を
身近に見ること。
巻き込まれて、背負って、家族として当事者になってしまった人以外に、
こうして、
世の中の全くつながりのない人たちが、
彼ら、彼女らの声を聞くことが出来る機会は
医療関係者でもない限り、
なかなかないことだと思う。
つながりの全くない、個人として考える。
「死」はたった一人で立ち向かわなければならない過程だ。
周囲の家族は、側にいて、心を痛め、右往左往するけれど、
結局は、
「死」に向かうのは、その個人だけだ。
同じような道を、たった一人で立ち向かわなければならない
強い不安を感じながら、
先に行かれた先人として、敬う気持ちを持ちながら、
参考にさせていただきたく、
ツイッターを読み進める。
訪問介護で、いろいろと出来なくなったご利用者さんと接するが、
死から数えて、数か月前まで、
まだ、こんなことが出来たんだ。
こんなことに希望を見出したり、
楽しみを覚えたり、
生きがいを感じたり、
試行錯誤されていたんだ。
飲み込めない。
食べれない。
外に行けない。
ナイナイ尽くし、
だけど、
これが食べたい!
美味しい!
それがどのように、かなえられたら、嬉しいのか。
生きる、生きたいという
希望が、
どのようなことを求め、
何を手にしたいと
人は一生懸命になるのか。
そう考えると、
今、
健康で、
何でもできる私が、
うつうつと、なにもせずに、
挑戦せずに、
○○しなければ・・
と自ら、不必要なルールで己を縛り、
自ら、出来ない理由にがんじがらめになって、
したいことをしないのが、
どんなに愚かしいことか。
したいこと!
食べたい!
好き!
したい!
素直なその気持ちを満たしてあげることが、
自分にとって、どれほど大事なことか。
自分には関係ないことで、怒ったり、
嫉妬したり、
劣等感を感じたり、
鬱鬱したり、
不安で臆病になったり、
疑心暗鬼になったり、
人を疑ったり、
ツイッターやっていると、
さまざまな意見にかき乱されて、
自分自身のリソースを奪っていくけど、
そんなことに、費やしているのは、もったいないかもしれない。
他人の人生、
誰かの意向、
そんなことより、大事なことがある
煽られて、
誰かの養分になる人生よりも、
もっと大事なこと。
踊らされて、
自分の望まないことに頑張る人生なんて、ポイしちゃおうと思う。
さぁ、
死ぬまで、
私の人生を生きよう。