これまで、自分の頭の中にある、世の中の構造は、
上流コース、中流コース、下流コースというのがほんわりとあった。
私の子供の頃の昭和の時代は、私のいる下流層上部から、中流コースに乗ることも可能で、
親たちは、自分の子供たちに良い教育を受けさせて、
上の階層に子供を送り込みたいと頑張れた。
子供たちを東京の一流大学に地方からいかせ、離れてしまっても、
自分たちも、少しずつ豊かになった地方の生活をそこそこ満喫して、老後を営むことが出来ていた。
地方には、親と同じ下流コースにとどまったまま、
マイルドヤンキーとして、早くに結婚し、地元のブルーワーカーとして、
親元に残った層もいて、
月日が流れ、親が健康不安を感じ始めた頃には、
側にいる、ヤンキー一家を頼りにするようになる。
上昇気流に乗って、うまく、都会に送り出した、脱下流層は、
都会に出て、キラキラとした都会生活を目の当たりにしながら、
一生懸命働き、
そのまま都会で就職、結婚し、
親とは別のルートに組み込まれてしまった。
年に数度、顔を出してくれるが、
子供たちは自分たちの子育てと生活にいっぱいいっぱいで、
親を省みる余裕はない。
お互いに、心配しながらも、縁は切れていく。
再び子供の心に、親の存在が大きくなるのは、
親が、本格的に老いて、一人暮らしが立ち行かなってしまった頃で、
その頃には、都会に住む子供たちも、都会生活の競争が高まり、余裕がなくなり、
子孫ともども、ダウン寸前になってしまっている。
余裕がない。
都会に出ることの出来た、地方の高学歴層は、
地方のしょぼい枠組みから見ると、
昔は、
キラキラした都会生活の一端を担う、自分たちとは違うステイタスをつかんだ、上流コースにみえていたけれど、
実際は、
都会に根付き、資産を代々ため込んできた上級国民の沢山いる都会の中に、
部外者が紛れ込んでも、
無一文で流入してきた、使い出のよい、使い捨て人材にしか、今は、もう、なれない。
その競争は、グローバルなものになっているから、
日本の地方出身者が勝ち抜ける土壌がない。
IT化がすすみ、コスパが絶えず検討されるようになった結果、
自分が常に最適化された状態でなければ、
その価値は評価されない。
周囲に気を配り、
その中で、最適な行動を選択し、
馬車馬のごとく、素早く答えを導き出し、走り続ける者だけが、
その地位をキープすることを許されるような社会。
とってもしんどい毎日だ。
人々をコマのように操り、
誤った情報で混乱させたり、
直情的な反応を起こさせるために、
「怒り」に着火する燃料を投下したり、
煽ったり、
それに煽られたり、
過度な反応を起こさせて、社会をフリーズさせることを楽しむ上級国民たち。
または、無敵の存在。
なにも失うことのない、もたざる者たち。
そんなものたちに右往左往させられる。
退屈で、刺激がなく、
生きている、息をしている価値もない
そんな毎日に、少しの刺激と、少しの混乱を求めて、
外部が騒ぐ。
そういう空気に、振り回される。
一人一人が、長年費やし、
何かの目標を達成しようと心に決め、
膨大な時間と労力を費やし、
手間をかけて、つないできた
その成果は一瞬にして奪われる。
暴力的に、振り回し、
暴力的に粉砕することが楽しまれている。
そんな競争の浮き沈みの激しい都会の末端で、
「まじめ」で、「こつこつ」努力できることだけが、美徳の私達が、
不安を抱えずに、
安心して、しっかりとした根を張ることは、今はとても難しい。
若くて、なにも重荷を背負ってなくて、
自分だけの能力をフルに使うことが出来て、
どうにか回る生活。
振り落とされないように、
感覚を麻痺させ、
目をつぶり、
しがみついて、どうにか回っている社会。
そんな毎日の中で、
親の介護や、子供の障害、夫婦間の軋轢
追加で、そんなものを抱えこむと、すぐにつぶれてしまう。
抱え込んだまま、さらに、高い山に登り続けられる、
そんな強さを持つものは、あまりいない。
宗教にすがるのか、
ストロングゼロに飲まれるのか、
性やドラッグの快楽におぼれるのか、
そうでもしなきゃ、
やってられないところに、追い詰められる。
人々が、国益や自分の考えを損ねても
長いものに巻かれてしまったり、
大きな罠に落ち込んでいったりするのは、
そんな個人で耐えきれるものではない圧力が、
四方八方から押し寄せてきて、
訳が分からない大きな流れにながされてしまうから。
都会であったり、権力の中心であったり、
とても、生きづらい状況だ。
これまでは、とはいっても、日本国内の話だったから、
自分の中の大きな物語に、なにかその現実を調和させることが可能だったし、
周囲を自分と関わりのある何かとして感じることも出来ていた。
だけど、それが、
今、ここにきて、
ネットで、世界の物語とリアルタイムでつながって、
世界の情報網の中での、自分の立ち位置が垣間見れるようになってきた。
グローバル経済という単一の価値基準のゲームの中での
日本にいる、ほとんどの上流階層は、
箸の先にも引っかからない、たんなる中流の一般庶民に過ぎなくて、
その区別をする、文化、マナー面でも、
上流として、受け入れられているのは、皇室くらいなんだろう。
お金の使いかた、
人の従え方、
そんな上流層だけが秘匿的に持ってあたりまえのずるさや生き方、身の処し方、
「周囲とは命の価値が違う」ことを当たり前のように、身に付いたその感覚をもち、
どうあるべきか、
そんなものがきちんと身についた人は、
日本には、もう、いない。
いないことを「善」として、
これまで戦後の日本人は生きてきたのだから、
いまさら、そういう人を産み出したいとも思っていない。
しかし、グローバルな世界で、
単一化したメジャーで形作られた世の中で、
上位層を担う日本人が存在しないことは、
ひいては、
日本の国益がこれから守られないことに通ずる。
誰か別の国の思惑が通りやすい世界。
日本の国益が二の次となってしまう世界。
そんな理不尽な環境の中で、
これからの日本に住む私たちは生きていくことになる。
国際社会の上流層として扱われる、発展途上国の人々が、
日本の援助で、
日本国民から吸い上げた税金を
自分の身内だけにため込むことによって、
子弟にグローバルな水準の高等教育を受けさせてきたのに、
そういう子供たちが、
上から目線で、
遅れた社会を正そうと、日本社会に圧力をかける道具になっている、
なんて、私達にとって、ほんと、バカらしい話。
がめつい人々
嘘、矛盾だらけのがめつさ、下品さ、
そういったものだらけの、グリーディなハイエナたち。
世界の物語には、そういうものが溢れている。
その中で、生き抜く話を、これからしなければならない。
国際社会の単一価値基準によるゲームの中の、
カテゴリー分け。
自分の所在確認、
上のカテゴリーに入ろうと奮闘する物語。
それは、今後の自分にとって、本当に必要だろうか?
自分の人生、時間、エネルギーを全投入する必要性が本当にあるのかしら?
頑張った結果、自分の人生は豊かになるのか?
意味あるものになるのか?
まずは、そこを問わなくてはならない。
例えば、自分が、中国本土に住む中国人であったとしよう。
中国で、豊かになりたい、出世したいと素直に思えば、
中国共産党のひくルールに従って、
党の方針に忠誠を図り、中国共産党に貢献して、
党のために自分の全エネルギーを投入して、競争に勝ち続けることで、
党の中央に近づくことが出来るかもしれない。
党の中央に近づけば、お金も権力も手に入れることが簡単になるだろう。
しかし、
「国のため」「周囲のため」「世界のため」の貢献とは、ずれたところで、
現実には、
「習近平の体制」の邪魔になると判断されただけで、
粛清されて、全てを失うことになる。
自分の努力は無に帰すどころか、
自分の存在が危うくなる。
そんな競争に、自分の人生の全てをかけるべきかどうか。
現実を理解しようと、
その社会の大枠を理解することは、
自分の周囲のゲームをうまくこなすために必要なことかもしれない。
しかし、
自分の人生を、誰かのひいたルールの上で、消耗し続けるだけなんて、
嫌じゃない?
もっと自由に、自分もゲームを構築する一部となるような、
そんな冒険のほうが楽しみではないか?
ルールの規定、世の中のルール、
それは、時代とともに、変化し続ける。
自分たちが永遠に不利で、
少数の選ばれし希少種だけが、
全てを決定し、
全体を動かそうとするような、今のルールは、
神への冒涜ではない?
私が今、手にしている人生は、そんなにつまらないものなの?
自分のレア度はない。
日本の、一般の庶民だ。
特別綺麗でもなく、能力があるわけでもなく、
マイノリティでもなく、
ひいては、
若くもない。
大きな枠組みになればなるほど、
私のステイタスは下流に置かれる。
代替可能。
特別さはない。
そして、
他人から特に必要ともされてはいない。
私が必要とされるのは、
私を奴隷のように使えるとき、
頭数として数えるとき、
誰かに搾取されるとき、
それくらいしか、無関係の社会にとって、私の価値はない。
中国なら、そこに、肉としての価値をみるのかな?
人権なんてなにもない国だから、
移植するための臓器とか、
人体実験の材料とかの目線で、私の価値を図るかもしれない。
コロナが蔓延して、
そういった実験をしようとする動機に、
金儲けとか、
技術進化とか、
そういったグリーディさを、私達は目の当たりにして、
そういったものに、やすやすと、大事なものを奪われることになって、
今、世界の当たり前は毀損している。
その喪失感と無力感が世界中に満ちている。
分断や孤独、無力感。
多分、
やったものたちは、
高揚感と人類をコントロールできる万能感を
得てしまっているのだろう。
最悪なことに‥。
ITの個人情報収集もそうだ・・。
あるポジションにいる人たちに、万能感を与えている。
そういうものに、組したくない。
全人類が嫌でも巻き込まれてしまうとしても・・。
心だけでも、
思考だけでも、
自分のものであり続けたい。
環境としては巻き込まれる。
それは抵抗のしようがない、大きな流れ。
その状況下で、
ルールは、次々変わるし、
早く適応できなければ、
早く除外され、蹴落とされてしまう。
先が読めない。
積み上げてきたもの、
長年の成果、慣習、受け継がれてきたものが万能ではなくなった。
ゼロ、なにもない、
そこから考えなければならない。
周囲のルールを知る。
ルールの成り立ちを理解する。
その知識を使いこなす。
自分の環境を最適化する。
それは絶えず、更新され続け、
永遠、絶対の安心感はもうやってこない。
一人で相対する。
新しいルール下で、どう生きるか。
環境制約下で何を選択するか。
それは、自分の直観と、決断による。
自分の直観を磨くために、
失敗をフィードバックする。
成功に浮かれすぎない。
自分の決断を中心に、試行錯誤した結果を、
きちんと残す。
同じように、一人で試行錯誤している仲間とつながる。
集合知化する。
参考にしながら、トライする。
最低限、自分の足で立っていること。
それだけが、
これからの私の生き方になるだろう。
今は、それくらいしか、ない。